結論から言う。忘れるのは、正常だ。異常でも、才能がないわけでもない。
これ、当たり前のことを言ってるようで、実は多くの語学学習者が心の底では信じきれてない事実だと思ってる。
「あんなに覚えたのに」の絶望、僕にもある
正直に告白する。
3ヶ月前に覚えたはずの韓国語の単語を、今日、綺麗さっぱり忘れてた。「これ、あんなに何度も復習したのに」というやつ。Duolingoのレッスンで、確実に「知ってる」レベルまで持っていったはずの単語が、久しぶりに出てきたら「誰?」状態になってた。
昔の僕なら、ここで結構凹んでた。「才能がないのかも」「時間の無駄だったんじゃないか」「他の人はちゃんと覚えていられるのに」。こういう自己否定の言葉が、頭の中を勝手にぐるぐる回り始める。
でも今は違う。「あ、忘れたな。まあ、脳ってそういうもんだよね」で、だいたい終わる。
この違いは、才能でも根性でもなく、単純に「忘却」というものへの理解が変わったからだと思ってる。
忘れることは、脳の「バグ」じゃなくて「仕様」
これ、調べれば調べるほど納得する話なんだけど、人間の脳は基本的に「使わない情報を忘れるように」できている。
考えてみれば当たり前で、もし人間が一度覚えたことを全部覚え続けていたら、脳の容量なんてあっという間にパンクする。だから脳は、頻繁に使う情報だけを優先的に残して、使わない情報は積極的に整理していく。これ、欠陥じゃなくて、むしろ超優秀な機能なんだよね。
つまり、単語を忘れるということは、「あなたの脳が正常に機能している証拠」でしかない。バグってるどころか、むしろちゃんと仕事をしてくれてる。
これを知ってから、忘れることへの罪悪感が、かなり軽くなった。
「忘れる前提」で学習を設計する、という発想
じゃあ、忘れることを前提にすると、何が変わるのか。
僕の場合、「一度で完璧に覚える」という発想自体を、そもそも捨てた。
- 今日覚えた単語は、来週には半分忘れてて当然
- 来月には、もっと忘れてて当然
- それでも、何度も「再会」を繰り返すうちに、少しずつ定着していく単語もある
これくらいの、ゆるい前提で学習を組み立てるようになった。
12言語を同時につまみ食いしてると、正直、どの言語も「完璧に覚えている」状態にはならない。むしろ、忘れて、また出会って、また忘れて、また出会って、の繰り返し。でもこの繰り返し自体が、実は記憶の定着プロセスそのものだったりする。
一度で覚えようとする学習は、いわば「一発勝負」。でも忘れる前提の学習は、「何度でも再挑戦できるゲーム」に近い。どっちが精神的に楽か、言うまでもないと思う。
「忘れた自分」を責めない、というスキル
これ、地味に大事なスキルだと思ってる。
多くの人は、「単語を覚えるスキル」ばかりに注目する。でも本当に継続を左右するのは、「忘れた自分を責めないスキル」の方じゃないかと、最近は思ってる。
忘れた瞬間に「自分はダメだ」と思うか、「あ、また会おう」と思うか。この受け止め方の違いが、その後の学習継続に、めちゃくちゃ大きな差を生む。
前者は、忘れるたびに自己否定が積み重なって、いずれ「もうこの言語、向いてないのかも」という結論に至りやすい。後者は、忘れるたびに「また覚え直せばいい」というフラットな姿勢を保てる。
僕が1,300日、しかも12言語を同時に続けてこられたのは、単語の記憶力が優れてるからじゃなくて、たぶんこの「忘れた自分を責めない」というスキルだけは、無駄に鍛えられてきたからだと思ってる。
忘却は、むしろ「また会える」口実になる
これ、ポジティブに捉えすぎかもしれないけど、正直に書く。
忘れた単語に再会すると、実は「懐かしい」という感覚がある。「あ、お前、久しぶり」みたいな。完璧に覚えていたら味わえない、この再会の喜びが、僕にとっては地味な学習のご褒美になってたりする。
一度も忘れずに覚え続けている単語より、何度も忘れて、何度も再会した単語の方が、なぜか愛着が湧く。これ、人間関係と似てるかもしれない。
忘れっぽい自分を、責めなくていい
もし今、「単語をすぐ忘れる自分はダメなんじゃないか」と落ち込んでいる人がいたら、伝えたい。
忘れるのは、脳が正常に働いている証拠。異常でも、才能がないわけでもない。
12言語、忘れて、また出会って、を繰り返しながら、それでも1,300日続いている。この事実こそが、忘却を恐れる必要がないことの、何よりの証明だと思ってる。


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